深刻な学級崩壊と想像力の欠如

子どものいじめの現場には、考えられないほど多数の学級崩壊の現実があり、そこには現実の子どもたちにきちんと対応できない無力で無数の教師崩壊の現実が存在している。

政治家の資質があるように、今、教師の力と資質が問われないといけないと思う。そして教師の周辺には、教員室の同僚教師や校長、PTA,家庭といった社会的な存在がこれを取り囲んでいる。複雑な関係の中で、教師の重圧は頂点に達して、教死に至る。
政治家にもいろいろあるように、教師にもいろいろな存在がある。力のない教師をともに育もうとする教師仲間や出世には目を輝かせても子どもの現実には無理解の校長の存在なども極めて大きい。


数々の要因の複合体の上に子どものいじめの現場があるが、「子ども自身」をたくましく育て上げていない哲学の欠如も社会的な責任として強固に存在している。 要は子どもがいじめにあったとき、内内で片づけるのではなくて、いじめた子どもなどを徹底して厳しく指導する学校自身の体制が最も重要である。今回の群馬のようにすぐに責任を回避しようとする体質の中から、いじめが発生している。弱い者いじめは、昔から存在しているが、現代のいじめは陰湿であり、このいじめにかかったら、どのような子どもでも生きていくのはつらいだろう。特に国際結婚などで、容姿などをかわらわかわれた場合、どのような子どもでもそれに耐えて学校生活をおくるのは難しい。大声で泣きながら、「自分一人で」給食を食べている子どもの孤立がわかるであろうか?


日本の子どもの孤立感は世界でトップであるとは、いったいなにを意味しているのであろうか? 孤立する人間の苦しさや寂しさを想像させる教育が、今の日本には徹底して欠けている。

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