ヴェトナムの孤児院を訪問して(2009年5月11日)

海野優さんは長年、在米で、リサーチ&セミナー・コラボレーター(URTA代表)として活躍しておられますが、ICLCのアドバイザーとしても、物心に渡って大変ご協力いただいています。このたび、海野氏から、5月のヴェトナムの孤児院への訪問に関して寄稿をいただきましたので、ご紹介します。
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私の家内は、ボートピープルとしてアメリカに渡ったヴェトナム系アメリカ人である。名前はホアンという。その家内と一緒に、5月11日から9日間, ヴェトナムに里帰りをした。今回の、11年ぶりとなる3度目の故国訪問には、家内の兄弟姉妹を訪ねると同時に、もう一つの目的があった。それは、孤児院への訪問である。
孤児院訪問と言っても、特に大きな問題意識があってのものではない。ヴェトナム戦争終了から34年になる今日、いわゆる「戦争孤児」は消滅したが、いまだに孤児の問題はなくなっていない、という話をアメリカのヴェトナム系医師や僧侶から聞いていたからだ。

実をいうと、私は、ヴェトナム戦争が終った2年後の1977年5月にヴェトナムを訪問している。日本から行く戦後最初のツアーグループとして、ホーチミン、フエ、ダナン、ハノイ12日間の旅に参加したのだ。その時に、ホーチミンの「戦争孤児院」を見学したことがある。そんなせいもあって、現在の孤児院はどのような子どもたちを抱え、どのような活動をしているのだろうか、という取り留めの無い関心があったのである。


5月17日の日曜日。午前8時には、もう気温が30度を越えている。既に雨季に入っているヴェトナムでは、肌に汗がにじむ蒸し暑い毎日である。とはいっても日本の真夏の、あのべっとりとした汗が噴出すような不快感ではない。頭上は、南国の薄ブルーの青空で、白い雲がゆったりと浮かんでいる。お寺参りと孤児院の訪問にはうってつけの1日となりそうだ。

9時前、私達は、ホアンの弟家族に連れられ、甥の運転する車でサイゴンを出発した。バイクと自動車が所狭しに往来する市街地を抜けて、ヴェトナムの南北を縦断する国道1号線に入る。人は「ハイウエー」と呼んでいるが、車線の規制も意に介せず、雲霞のごとく、右に左にと走り抜けていく無数のバイクのため、車の平均時速は40キロそこそこ。それでも、バイクを引っ掛けないように、またぶっつけられないように、注意しながらハンドルを切っていく。
国道1号線を1時間ほど北上すると、突然ローターリー式の交差路にぶっつかった。ここで右に進路をとる。東に向かって延びる道の終着点は、ホーチミンの裏庭リゾート地と呼ばれるブンタオビーチである。ブンタオまではまだ70キロ近い道のりだが、この辺りから、田んぼの中に椰子の木立や、ニッパ椰子で葺いた屋根の農家が見られる。国道1号線に較べると、バイクの数は半分以下で、ようやくドライブ気分が味わえる。

ブンタオへの途中にタンハンという田舎町がある。タンハンは、「お寺の里」として有名な地域である。この一帯には、200以上を数える寺院が林立するのだ。車は、幹線道路を外れて閑静な小道に入っていく。道の両側は生け垣で、ところどころ赤い花をつけた木々が生い茂っている。道の遠方には、お碗を伏せたような形の、緑深く小高い山が隆起している。車窓から見る限りでは、普通の田舎の風景といったところ。ちっとも「お寺の里」には見えない。でも、道を進むに従って、木立の中に大小の寺門が見えてくる。門構えのあるところは、そのほとんどが寺院の入り口なのである。小道に沿った10数軒のお寺を通り過ぎて行くと、竹と椰子葺きの素朴な門が右手に見えた。フォーヒン寺という名前の尼僧院である。


フォーヒン寺には少女たちのための孤児院がある。車は素朴な寺の門をくぐる。境内は、ゆったりとした空間に木々が程よい間隔で枝を広げて木陰を作っている。お寺というよりは、日本の城内庭園といった雰囲気。境内の中ほどに質素な仏殿がある。仏殿は、三方が吹き抜けになっていて、まるで能楽堂のようだ。このあたりにあるお寺の多くは、周囲に壁をもたない風通しのよい造りになっている。やはり熱帯の国らしい造りである。
仏殿の左手には、庫裏と休息所を兼ねた建物。3台の長いテーブルと椅子、そして休息所の周りには、柱と柱の間に結んだヴェトナム式ハンモックがたれている。横になって一息入れたい人のためにあるのであろう。そこに、作務衣のような衣装をまとった10名ほどの少女たちと黄色の僧衣の尼僧がおしゃべりをしている。
私たちが近づくと、尼僧と少女たちが笑顔で迎えてくれた。尼僧はここの住職で、タムグェ尼という。前髪だけを伸ばす奇妙な髪型の少女たちは、孤児院の子どもたちである。私たちのために、冷たいお茶を用意してくれる。顔にまだあどけなさの残る少女たちの笑顔が清清しい。住職が、茹でたサツマイモを振舞ってくれた。多分、境内の菜園で取れたものであろう。素朴な形のサツマイモは、昔懐かしい味である。


タムグェ尼が、仏門に入ったのは戦争終結後のことだという。父親はかつての南ヴェトナム軍の軍人であった。幼いときに、父親について大阪に行ったことがある。大阪のことは、今でもよい思い出として覚えている。 詳しい理由は語らなかったが、戦後、中部ヴェトナムのクワントリという町からタンハンの「寺の里」に難を逃れ、ここの尼僧院の門をたたいた。出家して仏門に入ったタムグェ尼は、仏道の修行に励んだと語る。


終戦後の南では、多くの家族が職を失い、敗走し、新経済地区という開拓地に追放された。軍人の家では、親兄弟が「再教育キャンプ」に収容された。政治体制の変革によって生み出された悲劇である。残った女子どもや老人だけの家族では、生きていくことがとても困難であった。そのため、親は、泣く泣く幼子を他人に託し、あるいは、寺門の前に置き去りにしていったという。それから20余年の年月が過ぎて、かつての戦争孤児だった子どもたちが大人になり、「戦争孤児」という言葉も使用されなくなった。それでも、ヴェトナムの社会には、いまだに家族も家庭も持たない子どもが少なくない。生活が立ち行かず一家離散した家の子ども、生活苦の中で麻薬に染まった親から逃げ出した子ども、見知らぬ場所や寺の境内に置き去りにされた子どもたちである。戦後の社会環境は変ったが、孤児を生み出す生活環境はいまでも変わらない。

そんな浮浪児や親のない子どもたちを、何とか寺に引き取りたい、という思いを強くしたのが
タムグェ尼であった。当時の住職である尼僧に相談したが、許可されなかった。「もし孤児の世話をしたければ、独立して孤児院を開くべきだ」と、諌められた。 それでも、家族と家庭の幸せから引き裂かれた子どもたちを助けたかった。そんな一途の思いから、尼僧院を離籍する。そして僧院の隣に土地を借り受けて新たに開山し、孤児院を開いたのは10年ほど前のことだった。


現在、フォーヒン寺では46名の少女たちが共同生活をしている。年齢は、幼児から16歳までの子どもたちだ。毎日の生活は、朝夕の仏様へのお勤めはもちろんのこと、掃除、洗濯、食事のしたくと、年齢に応じて何でも行う。学童期になると地域の小・中学校に通って勉強もする。学校から戻ると、尼僧たちの手伝い、菜園の手入れや収穫、そして、大きな子どもは年下の子どもの世話もする。年長の少女たちは、中学校を卒業するときに将来の選択を行う。高等教育を望む子は、高校への進学も可能である。仏門生活を希望し、またその適正のある子どもは、完全な剃髪を行って正式な仏道修行に入る。希望しない子、適正に欠ける子は、現実の社会にもどる選択をすることもできる。
タムグェ尼の話では、少女たちの多くは勉強が好きで、成績もよく、そして仏門に進む子が多いという。確かに、少女たちは、明るく、利発そうな顔立ちをした子が多い。彼女たちの笑顔を見ている限りでは、過去の暗い影など全く感じられない。苦しい境遇の時に較べると、衣食住に不安がなく、しかも普通の子どものように、学校で勉強ができるという生活こそ、「幸せ」の具現なのであるのだろう。


孤児院に引き取られる少女たちは、親を持たない子、養育をしてくれる者のいない子であれば、誰でも収容される、というものではない。お寺の境内に捨てられた乳飲み子は別として、地域の福祉事務所からの問い合わせや、紹介状を受けてやってくる子どもたちを面接した上で、受け入れの是非を決める。子どもたちの適正や性格を確認するのである。仏門生活に適さない子、団体生活になじめない子、孤児院に受け入れても性癖や社会性を変えられないような子、そのような申込者たちはふるいにかけられる。子どもたちの将来を仏門での人生に託すのであるから、一般社会で開かれている孤児院とは異なるのも当然なのだ。それに、朝から晩まで、規律に従った団体生活を送るのである。協調性に欠け、けんかしたり、盗みをしたり、勉強の嫌いな子どもには向かない生活環境でもある。


寺院としての規範とみんなの和を守るためには、入所の際のセレクションが必要だという。もちろん、セレクションによって、幼少の子や年少の子どもたちの性格や適正が分かるというものでもない。そこで、フォーヒン寺では次のようなシステムをとっている。学校教育が終了して人生の進路を決定するまでは、半仏半俗の身分として扱われる。いうなれば、仏門見習いみたいなものである。だから、孤児院に入所しても、即、剃髪をすることはしない。頭髪の後ろ半分を剃髪するだけで、前髪は残しておく。少女たちの、おかしくも、かわいらしい髪型のファッションには意味があったのである。
孤児院の運営は、お寺への寄進や浄財のほか、菜園で収穫した果物や野菜の売り上げ、そして寺院で製作する手芸品や工芸品の販売で賄われている。決して余裕のある運営とはいえない。でも、ヴェトナム人は信仰心の厚い国民である。多くの人が、支援を惜しまない。薬問屋を経営するホアンの弟家族も支援者の一人である。時々この寺を訪ねては、物品や薬やお金を寄進している。 少女たちは、カップラーメンが大好物で、今回も何十個というカップラーメンを車に積んでの訪問となった。


アメリカや日本のように、物質が溢れ、自由が充満する社会とは異なって、世界の途上国では、生活苦のために孤児院に収容される子どもたちが少なくない。孤児院に入所できる子はむしろ幸せで、それさえできず、「ストリート・チルドレン」としてその日暮らしをしている子どもさえ少なくない。ヴェトナムでも例外ではない。そのような幸から見放された子どもたちに較べると、フォーヒン寺の少女たちは恵まれた境遇といえよう。彼女たちの明るい笑顔に向けて、「肉親との縁は薄くても、これからの人生を支え、見守ってくださる修道尼やお寺があるのだから、未来を信じて、日々勉強してくださいね」と励ましの言葉をかけて寺を後にした。



July 9, 2009
海野 優  URTA代表

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